この文章はダンガンロンパV3に関する重大なネタバレを含みます。未プレイ者はプレイ後にお読みください。
サイハラ シュウイチ
いくら外の世界が求めているからって、
僕はもうあんな想いはしたくない!サイハラ シュウイチ
誰にもさせたくないっ!サイハラ シュウイチ
この世界がフィクションだとしても…
僕ら自身がフィクションだとしても…サイハラ シュウイチ
この胸の痛みは…本物だ!
サイハラ シュウイチ
仲間を失った悲しみは本物なんだ!サイハラ シュウイチ
僕らの命を弄ぶコロシアイを僕は絶対に許さない。
外の世界がそれを求めているというのなら…サイハラ シュウイチ
僕は世界を否定するっ!
僕らの悲しみや痛みを見せ物にしている世界と戦う!キーボ
外の世界と…戦う?
上記は「ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期」の6章最終盤において、この作品の方向性を決定づけたセリフだ。
「フィクション」の存在にすぎないと暴露されたサイハラ達、彼らにコロシアイを強いる「チームダンガンロンパ」とそれを娯楽として消費する「観客」。それらを「現実」の外の世界に対する「フィクション」からの反撃。V3がテーマとして掲げる「フィクション」と「現実」の対立軸が鮮明になる。そして、「フィクション」にも可能性がある、その結末へと向かって物語は収束していく。
しかし、「フィクション」にも可能性がある、というこの結末は、ほかならぬこの結末の導出過程によってその価値を損なわれてはいないだろうか。
ここで注目したいのはサイハラが失ったみんなのことをまとめて「僕ら」「仲間」としている点だ。アカマツやモモタの名前を出すことはあれど、彼らの具体的な想い出やエピソード、発言を引き合いにだすことはなく、皆等しく「仲間」としている。
似たような構造を持つスーダン2において、主人公のヒナタがナナミの「仲間を信じる」「自分を信じる」という文脈を持った言葉を思い返していたことと比較すると対照的だろう。これはなぜか。それは、V3の仕掛けである「すべてが設定である」という言葉によって、6章前半まで積み上げたキャラクターの「言葉」「想い」の重みが失われ、それを頼りに論理を組み立てられなくなったことによる。
だからこそ、サイハラは、仲間たちそれぞれのパーソナリティや発言ではなく、仲間の死という結果から受け取る「悲しみ」「怒り」といった自分の感情を根拠に据える。黒幕によって崩された不確かな足場ではなく、唯一自分が確かだと思えるものから論を進めていく。「超高校級の探偵」らしい堅実なやり方だといえるが、まずここで一つの疑問が生まれる。では、これまでサイハラが、そしてプレイヤーが経験してきた才囚学園でのキャラクターとの関係はこの最終盤での決断に対して無意味なのか、と。いや、完全に無意味というわけではなく、「仲間が死んだ」という大枠では無意味ではない。だからこそ怒りや悲しみが生まれサイハラの決断を引き出す。ここで言いたいのは、例えば、ずっとサイハラを支え、励ましてくれた百田との個別の関係、そこでやりとりされた固有の「言葉」「想い」は無意味なのか?ということだ。
もちろん、自分を構成するすべてを否定されたサイハラにとっては、この決断は不自然ではない。また、その絶望すら乗り越えて「外の世界」という敵と戦う姿は感動的ではある。とはいえ、個別の過去を踏まえることができない決断にはある種の軽さが伴うことも否定はできない。「仲間が死ぬから悲しい・心が痛い」というのは普遍的なロジックだが、それだけに単体では一般的な響きしか持ちえないからだ。
ただ、これはサイハラの責任というよりは、どちらかといえばストーリー構成上の問題のように思える。比較として、スーダン2においては記憶消去によって過去が崩された。だからこそ、ジャバウォック島で過ごした関係性を信じるということが決断の根拠となった。V3では記憶植え付けによって、過去に加えて、自分たちの性格、才能すらも崩された。だから、「怒り」「悲しみ」といった感情だけを頼らざるを得なくなる。2からただ条件が切り崩された、縮小再生産でしかない。その意味で、主人公の決断に伴うキャラクターの深みという点では単に面白みが失われてしまったと個人的に感じる。
◆想いを受けつげないキャラクター達
さて、サイハラにおいて死んだキャラクター達個別の「言葉」「想い」は不確かなものとして顧みられなかったが、それに類する事態は他のキャラクターでも起こっている。ユメノを例に挙げてみよう。
ユメノが想いを受けつげなかったシーンは、ユメノがサイハラから最後の学級裁判で「希望」と「絶望」をどちらも選ばず「棄権」するよう説得されたシーンだ。この時プレイヤーに主導権が渡っていたユメノは、最終的に「棄権」を選択する。ここにおいて、「棄権」とは自ら命を捨てることを意味する。このときユメノは
ユメノヒミコ
ウチらがコロシアイを終わらせないと…この悲劇は続いていくんじゃ…
転子やアンジーだって…そんなことは望んでおらん…
と語っていたが、本当にそうだろうか。
「設定」として否定されてしまったものではあるが、ここではいったん3章の展開を思い出してみよう。アンジーも、茶柱も、お互いやり方は違えど、ユメノのことを大切に思っており、人が死ぬことを強く否定していた。
テンコは最後に以下のような言葉も残している。
チャバシラテンコ
その代わり、夢野さんはちゃんとアンジーさんとお別れをしてくださいね。
そして、そのお別れが済んだら…ちゃんと、前を向いて生きてください。
転子や他のみんなと一緒に生き残ってください。…お願いします。
そもそも、ユメノは、一度「生きることすらめんどくさい」と生きることをあきらめてしまったキャラクターだ。しかし、ユメノは2人の死を乗り越えて、生きる希望を取り戻す成長を見せた。そのユメノが、アンジーとテンコの意思を引き継いでこんな決断をするだろうか?いや、この問い方は筋が悪い。この場面においてキャラクターがとるどんな選択も否定することはできない、だから正しく言い直すなら、ユメノというキャラクターが6章までで重ねてきたエピソード、そして失った2人の「言葉」「想い」をこのやり方で正しく活かせているだろうか?もう少し踏み込んでいうならば、このような状況を用意することは、ユメノというキャラクターの積み上げてきた固有性と、本来ユメノが引き継ぐはずだった死んだアンジー、テンコのキャラクターの「想い」「言葉」を無視する結果となっているのではないか?ということだ。
これは同様にキーボと春川にも言える。彼らそれぞれの才囚学園での固有の経験や、死んだ特別な誰か(特に春川にとってはモモタだろう)との関係をすべて無視して、「棄権」=「自死」を選ぶこの展開は本当にふさわしいものか、ということだ。
◆プレイヤーによるキャラクターの乗っ取り
実際、プレイヤーの依代であったサイハラはともかく、ユメノ達キャラクターにはこの選択を引き受ける理由は用意されていない。だから、かつての苗木やヒナタのように、キャラクター同士のやり取りによって、説得する可能性は残されていない。彼らも確かに他のキャラクターに自分の選択を強いた、という意味ではある程度全体主義的ではある。しかし、その説得は少なくともキャラクター間においてフェアな形で行われていた。そして、それがフェアである、と思えたのは、ここまで生き残ったキャラクター達がとるその決断に固有の経験、固有の死んでいったキャラクターとの関係性を持っていたからだ。しかし、足場を破壊したV3においてそれは通用しない。それは開発者も理解していた。だからこそ、ここにおいてプレイアブルキャラクターを入れ替えて、ユメノや春川の「選択」をプレイヤーに肩代わりさせたのだ。
別に何も、僕は「棄権」=「自死」という選択自体を否定しているわけではない。この選択自体は、「ダンガンロンパ」の否定というV3の悲願の達成にとって不可欠だ。否定しているのは、その選択をする論理、根拠が4人のキャラクターにおいて全く同じにされてしまっていることだ。そのロジックとは、仲間が死んだ「悲しみ」、コロシアイを見世物にされる「怒り」、それらを根拠に外の世界と戦う、というもの。6章後半を支えるロジックはこれしかない。このロジックは全てを崩された世界において唯一正しい。だからこそ、プレイヤーは固有性を剥奪されたキャラクターの意志を乗っ取ってこの選択を行える。いや、空っぽになったキャラクターに選択は行えない。だからこそ、プレイヤーが肩代わりをするしかない。そこには正しさ以外の何物も残らないし、プレイヤーが彼らの意志を肩代わりした時点で、本当に彼らは同一の存在となる。
◆フィクションのキャラクターを「殺す」には
フィクションのキャラクターは脆い存在だ。ダンガンロンパにおいては簡単にコロシアイによって命を落とす。だが、フィクションのキャラクターは「殺される」ことによってこそ「生きる」=「活きる」ことがあるのも事実。ダンガンロンパはそれを極限まで突き詰めたゲームと言える。だがそれ以上に、このキャラクターがいままでとは違う、設定が活きていない、今までの流れが活かされていない、そうなってしまっては事実上フィクションのキャラクターは死んでいるも同然だ。僕は、6章の後半でキャラクターが死んでいると感じた。まさに、全員がこれまでの経緯も性格も何もかもを無視して同じ経路をたどっていくのを見たその瞬間に。
V3は「すべては設定にすぎない」「フィクションにすぎない」というまさに劇薬を使ってフィクションのキャラクターを殺そうとした。だが僕は彼らがそこで死んだとは思っていないし、その判断が間違ったとは思わない。だが、その劇薬の全ての過去・想いを無化する効果にそのまま乗っかって話を進めるのはその劇薬に溺れ、本来果たすべきキャラクターを描く義務を放棄しているように思える。そんなやり方から、「フィクションに可能性がある」なんて結論を引き出されても、僕には「今目の前でフィクションの可能性は死にました。他ならぬあなた方の脚本によって」としか思えない。
◆再定義の可能性について
では、他にどのような可能性があったの か。必要だったことは、1度ひっくり返された土台を再定義する試みだったと思われる。そして、その再定義した土台=キャラクター自身によって選択を行い、最後の結末を導き出すことであろう。
〇そもそも覆された土台は何だったのか
ヤマダヒフミ(白銀)
ですが、才能だけではありませんぞ。
性格や生い立ちや家族構成や思い出や何もかもが…
コイズミマヒル(白銀)
’’思い出しライト''で作られた
フィクションの設定でしかないんだよ
性格や生い立ちや家族構成や思い出…つまり、文字通り「何もかも」である。厳密にいえばすべてフィクションである「可能性がある」状態だ。しかし、本来確からしいこれら全てのキャラクターの土台が揺らいでいるのだから、事実上彼らは何も信じられない状態に陥っているのだ。
〇サイハラの感情は本当に「本物」だったのか?
では、サイハラが言っていた以下の発言は真なのだろうか?
サイハラ シュウイチ
この世界がフィクションだとしても…
僕ら自身がフィクションだとしても…サイハラ シュウイチ
この胸の痛みは…本物だ!
サイハラ シュウイチ
仲間を失った悲しみは本物なんだ!
確かに、胸の痛みと悲しみがそこに存在することはサイハラが感じている以上確かだろう。しかし、痛みや悲しみはそれを感じる主体から独立して存在することはできない。そして、主体であるサイハラが完全に設定された「フィクション」であるならば、それをフィクションと対置する形で「本物」であるとは言いきれないだろう。つまり、サイハラが外の世界と戦うための根拠としたものは、実際は根拠と呼ぶにはあまりにも脆い、不確かなものだったのだ。しかし、僕はこの不確かさにこそ、仲間の想いを受け継ぎ、一度失われたV3のキャラクターを再構成しなおすカギがあると考える。
「不確かなものを信じて行動の根拠とすること」、これは明らかにV3に登場するあるキャラクターの行動指針と言えるものだ。
モモタ
「オレは犯人じゃないが、春川も犯人じゃねぇ!」
「なんとなくそう思うんだ!」
「ただの勘じゃねぇぞ、宇宙に轟く百田解斗の勘だ!」
そう、宇宙にとどろく百田解斗だ。モモタは「自分の信じたいものを信じる」という姿勢を序盤から貫いてきた。彼の「言動」「想い」を引き継ぐことこそが、V3においてキャラクターの再定義を行うカギとなるはずだったのだ。ただし、当然「百田のこの発言だって「設定」にすぎないだろう」という声はあるだろう。
百田 「終一、ビビってんのか?」
最原 (えっ?)
百田 「テメーがビビる理由がどこにあるんだ?
言ったろ、テメーはオレの助手だってよ。
助手の責任はオレが取る…それが筋ってモンだ。
だからテメーは、
テメーの信じた推理をぶちかませばいいだけだ!」
最原 「僕の…信じた推理を…?」
百田 「おうっ! 任せたぜ、終一! 」
しかし、重要なのはこのモモタの「設定」にサイハラがストーリにおいて救われた、と感じたこと。それこそが重要なのだ。全て設定かもしれない、でもモモタのあの台詞に、想いに、自分が感じた想いを嘘には「したくない」。「信じたいものを信じる」ことを百田に教えてもらったからこそ、今の自分のこの不確かな胸の痛み、感情を、外ならぬ自分の心情として「信じる」のだ、と言えて、本当に「フィクション」にすぎない「キャラクター」の可能性を信じることができた、と言えるはずだ。(フィクションかリアルか、本物か嘘か、というV3の2項対立にはこのゲームの構造上一生答えの出ない側面がある。その中でモモタのこの論法だけが、自分自身もその2項対立に囚われながらも、そこを境にしてこの2項対立自体を無化する可能性を持っている。ズルと言われればそれまでだが、作中でもモモタのその姿勢に勇気をもらったのは自分だけではないと思うし、実際現実世界においても必要な心構えであると思う。)
ここまで見て、サイハラは「胸の痛み、仲間を失った悲しみは本物だ」と述べていた部分に重要な補足が抜けていたことが判明する。サイハラは自分の感情の見かけ上の確かさに安住せず、もう一段階疑いの目を向ける必要があった。この胸の痛みや悲しみすらも偽物なのかもしれないという絶望から目をそらすべきではなかった。そしてその上で、胸の痛みや悲しみが「本物であるかフィクションであるかに関わらず」偽物にはしたくない、この感情を信じたい、という姿勢こそが6章において打ち出すべき筋だったはずだ。(サイハラは失意のなかで無意識のうちにこのプロセスを踏んでいるという可能性もある。しかし、V3という作品でキャラクターを再構築するために、単なるフィクションの「設定」にすぎないと喝破された死んだ仲間たちの、その設定を今に生きるサイハラ達が受け取り「生かし直す」ために、このプロセスは明確に言語化される必要があった。それが抜けたことは脚本上の瑕疵であると思う。)
長くなってきたので結論に入ろう。「根拠はないが信じる」という、フィクションにすぎないかもしれないモモタの発言を、それに感銘を受けた自分自身の経験、感情を根拠として、その発言を「リアルかフィクションかにかかわらず」引き受ける。
以上のプロセスを経て、サイハラのあくまで一般論的でしかなかった「悲しむ」「怒る」感情に、モモタという、サイハラにとって特別な存在だったキャラクターの「言葉」「想い」を支えとして個別具体性が伴っていく。
そして、そのプロセスを経て告げる言葉は、きっと生き残った仲間たちにも違った心の変化をもたらすのだと思う。サイハラが仲間たちに伝えるべきことは「根拠もなく信じる」という姿勢なのであり、各々が信じる内容そのものではない。信じる内容はそのキャラクターが才囚学園で過ごした日々の中で最も信頼したキャラクターから受け継ぐものだ。例えばユメノであれば、「前を向いて生き残ってほしい」という、テンコの想いを、「フィクションかリアルかにかかわらず」自分の意思で根拠もなく信じ、引き受けるのだ。
こうなると、6章の結論は「棄権=自死」でひとまとまりになるものではないはないし、ましてプレイヤーが肩代わりして選択できるものでもなくなってしまう。事態はより混迷を極め、答えらしき答えは出なくなってしまうのかもしれない。
ただし、混迷も答えが出ないことも、V3というゲームが自らに課したテーマ性である。そこに安易に答えを出すよりは、混迷や、答えのでなさは当然の帰結として受け入れ、泥臭く向き合っていくことこそがV3の真骨頂というか、辿り着くべき場所だったのではないかと思う。











